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国旗 世界の労働者のたたかい
オーストリア
2004

 連立与党の一方である極右政党・自由党(FPÖ)の内紛によって国民党(ÖVP)と自由党の連立内閣が崩壊し、02年11月24日に繰上げ総選挙が実施されたこと、そして選挙結果では、国民党が大幅に議席数を増やし第1党を確保したのに対し(前回より27議席増の79議席)、自由党が惨敗に終った(34議席減の18議席)ことは本報告第9集で述べた。社会民主党は4議席増の69議席、緑の党も3議席増の17議席で、自由党の減少分を国民党が大きく吸収はしたものの、議席配分は自由党の減少分が3党の増加分とぴったり一致する形となった。このために政権の枠組をどうするかが年を越しての課題となった。連立のための政策協定の争点は、年金改革、税制(ガソリン税引上げ)、健康保険改定(自己負担の導入)などであった。国民党は社民党との大連立も追求したが失敗に終り、最終的に国民党・自由党の第2次連立内閣が成立したのは2月末であった。国民議会(下院)の議席総数は183、そのうち連立与党の議席数は97(前回は104)、わずか5議席の単純多数で、1945年以来最も弱体と言われる連立政権のスタートであった。
 オーストリア経済はここ3年間景気の低迷を続けてきた。1研究所の予測によれば、景気回復は04年以降に見こまれるが、その場合も失業は増勢をやめないだろうと言われる。失業の年間平均では03年23万9900人、04年24万3500人、05年24万3000人、率としては7%前後の予測である。03年の場合を見ると、「労働市場サービス」(AMS)が発表した11月の届出失業者は24万8156人、7.2%であった。これに訓練中にある求職者の4万4127人を加えると29万2283人となり、失業率では5年ぶり、失業者の絶対数では1950年以来の記録だとされる。とくに03年に注目されたのは大学修了者の就職難である。AMSの9月現在の集計によれば、失業中の大学修了者(アカデミカー)は7415人で前年同月よりも15.4%の増加となっている。専攻分野別では法学と経営学がほぼ同数で約1700人、全体の20%強を占めている。また対前年比較では、教育学専攻が31%増と突出し、それに医学、心理が続いている。
 さて03年のオーストリアは、この国の史上に例を見ない大ストライキを記録した。1つは年金制度の改悪に反対する50年ぶりと言われる2度のゼネストであり、1つは「オーストリア連邦鉄道」(ÖBB)の民営化計画に反対する鉄道労働者の全国ストである。ともに新政権の国内政策に向けられた政治色の強いストライキ(労組側はそれを「防衛スト」だと主張した)であった。

イラク戦争反対

 03年1月の1週刊誌の世論調査によると、イラク戦争反対は93%、支持はわずか2%であったと伝えられる。1月28日には、シュッセル首相は総選挙後の暫定政権の状態にはあったが、「国連安保理決議があったとしてもオーストリア兵のイラク派兵はありえない」と述べ、差し迫るイラク戦争への中立国オーストリアの立場を明確にした。また戦争にかかわる軍用機の領空通過についても、国連安保理の承認がなければ「不可能だ」と述べた。政府のこの立場がアメリカ政府への直接の反論として示されたのは、2月14日の外務省声明であった。前日13日にラムズフェルト米国防長官は、議会での証言で、オーストリアが、ドイツからイタリアまでの列車での軍隊・軍事物資の輸送を阻止し「困難な状況を引き起こしている」と批判。声明はこれへの反論で、次のように述べていた。「オーストリアは、法的な地位に基づき、軍隊や軍事物資が、国連の委任がないイラク軍事攻撃に使用される場合、その領空および領内の通過を認めない」と。
 同じ2月14日に、オーストリア労働総同盟(ÖGB)のフェアツェトニッチュ議長は、「平和的なイラク解決のための新しいイニシャティブ」を政府に要求する組合声明を発表した。その末尾には次のように言われている。「オーストリア総同盟の名で私は、わが中立国の責任ある政治家に、オーストリアを戦争政策へのいっさいの加担から遠ざけ、軍事物資と軍隊のオーストリアの領空および領内の軍事的通過を認めないよう訴える。戦争ではなく労働と社会正義こそわれわれの目標でなければならない、中東においても!」と。

◆2月15日、ウィーン3万人の反戦デモ
 世界の主要都市を一巡するようにして展開されたイラク戦争阻止の2月15日行動に、ウィーンでは厳寒の中を3万人が街頭に出た。100を超える組織、政党、平和団体が呼びかけたもの。「石油のために血を流すな」、「戦争はテロ」、「パレスチナのために正義を」などの横断幕が進み、ドラム、笛、楽団が鳴り響いた。各界の代表が反戦行動の継続を訴えた。オーストリア在住のクルド人労働者もイラク国民との連帯を訴えた。

◆「戦争やめろ」 ― 3月22日、ウィーン5万人の「星空行進」
 米英軍のイラク侵攻の「Xデー」が現実となった3月20日(木曜日)に、ウィーンでは8千人の抗議行動が組まれ、市内からアメリカ大使館までのデモが行われた。また市内25の学校が「Xデー」抗議のストを行った。
 週末の22日、ウィーンでは5万人が参加した「星空行進」が実施された。ÖGB、社会民主党、緑の党、共産党、学生連盟、カトリック団体、グリーンピース、ATTACなど約120の組織が呼びかけた行動であった。同日午後には教会が合同しての平和ミサが行われ、参加者はその後「沈黙の行進」に移って夕刻からの街頭デモに合流した。
 主催者は公式の意思表明として、イラクでの戦争即時中止と経済封鎖の解除、オーストリアの領空・領内の軍事的通過の禁止、「戦争政策へのオーストリアの加担反対」を要求した。「EUの軍事化反対」も掲げられた。
 怒りのシュプレヒコールとプラカードや横断幕が夜の街に続いた。アメリカとイギリスの大使館前では若者たちが、SIT IN(座り込み)にならってDIE INを繰り広げた。
 この日、グラーツなどのいくつかの都市でも抗議行動が組まれた。

年金制度改悪に反対――50年ぶり2度のゼネストと雨中20万人の抗議デモ

 ほとんどのEU加盟国で年金制度の見直しに手がつけられている。ことの直接の起こりは02年3月バルセロナのEU首脳会議の決議で、実際の年金受給年齢を2010年までに5歳引上げるとしていた。制度改定の動きは各国で激しい対立・紛争の焦点になっている。オーストリアも例外ではない。2月末ようやく組閣にこぎつけた第2次国民党・自由党連立政権(黒青政府と呼ばれる)は、4月初めに年金「改革」案を発表した。事前に関係各機関に諮ることもなく、意見聴取のための「審査期間」も4月24日までに限っての性急な提案であった。提案は当初から紛糾の焦点となった。

◆政府の年金プラン
 政府草案の主要点は次の3つである。
 (1)早期年金の廃止――現行の雇用者年金保険の女性56.5歳、同保険の男性および公務員61.5歳を04年から段階的に引上げ、09年からは受給開始年齢を女性60歳、男性65歳とする。09年までの期間になお早期年金を受けようとすれば、現行年3%から4.2%に減額幅が拡大される。例外として負担の重い労働に40年以上勤務の女性、45年以上の男性は、55歳と60歳で早期年金を受けられるが、3%の減額となる。
 (2)年金の通算期間の拡大――現行の雇用者保険では、年金はベストの報酬期間15年の平均で算定されている。また公務員は最終の(ベストの)年度の報酬を基礎に算定されている。04年から両制度の通算期間を延長し、2028年にそれを40年とする。
 (3)給付水準――通算期間の平均報酬から得られる年金額の割合は、就労各1年を「積上げ額」として比率化し、それの就労年限の倍数で算定されるが、現行「積上げ額」2%を1.78%に抑える。2%の場合は最高80%の年金水準(所得代替率)に達するためには40年の就労・保険料納入であったが、1.78%ではそれは45年となる。
 付言すれば、オーストリアの現行年金制度は、雇用者、自営業者、農民、公務員、鉄道員の5制度で構成されている(他に議員年金がある)。各制度間には保険料率でも給付額でも格差があり、制度間調整の難問があるが、政府案はこれを先送りし、上記の部分の改定を第1段階の課題とした。

◆改悪の閣議決定に抗議のゼネスト、フランスの年金ゼネストに呼応した20万人デモ
 政府原案についての「審査期間」が4月24日に切れて、さまざまな争点が噴き出した。次の諸点であった。(1)早期年金廃止のステップが早すぎる。(2)通算期間の40年延長に給付増額因子が伴っていない。(3)「積上げ額」を04年から移行期間なしに2%から1.78%に減額することに反対。(4)女性の育児期間の通算期間への配慮がない。(5)「政治家年金」についての削減提案がない。(6)制度間調整が後回し。
 さてオーストリア労働総同盟(ÖGB)は同じ4月24日に、政府の年金プランに対し「防衛スト」を実施することを決定した。ÖGBはこれより先、政府に対して、9月までに労使の共同提案をまとめるとして、政府プランの決定の延期を申し入れていたが、それをシュッセル首相が拒否してきたための行動決定であった。ÖGBは政府の出方次第で4月29日以降にストを組むことを決定した。ストは「防衛スト」であり「ゼネスト」ではないことを組合は強調した。
 4月29日、政府は細部に若干の修正を加えたものの、原案を予定通り閣議決定した。専門家は緩和措置があっても年金は平均で20%、部門によっては30%の削減になること、早期年金の受給者も最高15%カット、そして若ければ若いほど損失が大きいことを明らかにした。ÖGBは5月6日(火曜)のスト決行を決めた。
 「火曜日はストライキの日。数十年このかた初めて、分野の壁を越えて数十万のオーストリア人が仕事を中止した」と新聞は報じた。ウィーン、グラーツ、ザルツブルク、インスブルック、リンツなどの主要都市では、朝のピーク時に公営交通が全面ストップした。道路封鎖がマイカーの足を止めた。空の便には運休・遅延が起こった。役所は窓口業務を長時間閉ざし、学校の多くは休校となった。オーストリア連邦鉄道、シーメンス・オースリア工場、オーストリア・テレコムを初めとして500を超える大手企業が数時間のストに参加した。5日夜から6日朝にかけて貨物列車は1200輌を運休した。新聞朝刊も全国的にストップした。「オーストリアで画期的な転換が起こっている。社会的大グループが利害を調整してきた伝統的なコンセンサス政策の終焉と言っても言い過ぎでない事態だ」と『南ドイツ新聞』は報じた。
 抗議行動の第2波は1週間後5月13日夜のウィーン大集会であった。当日はフランスでも年金改悪のゼネストが予定されており、集会はそれに呼応するものでもあった。「徴集するのではなく改革せよ」のモットーが掲げられた。ÖGB内には5万人集会なら成功だ、の事前の声もあった。しかし当日の集会・デモは雨中にもかかわらず20万人の参加となった(警察発表は「たったの10万」)。鉄道は10―13輌編成の臨時列車9本を増発した。100台以上のバスが動員された。参加者はずぶ濡れになって行進した。「社会保障解体――お呼びでない!」の大横断幕が進んだ。政府は原案を撤回し交渉のテーブルにつけ。これが集会の要求であった。

◆「円卓会議」不調、6月3日ふたたび100万人ゼネストへ
 5月15日、シュツセル首相は政労使代表の「円卓会議」を開いた。クレスティル大統領の要請を受けてのものであった。会議は前後5回開かれたが、政府とくに首相の強硬姿勢は変らず、本質的な進展がないままに終った。ÖGBは6月3日にふたたびストライキに入ることを決定した。「円卓会議」の結果を受けての翌4日からの国民議会の審議続行に抗議するものであった。スト前日のテレビ討論では、ドイツのリュールプ教授(いわゆる「リュールプ委員会」の議長――ドイツの項参照)も出演し、ÖGB側を批判する一幕もあった。年金問題は所得の再分配の問題でない、世代間の再分配の問題だ、と彼は発言した。
 6月3日のストはまさに空前のゼネストであった。ÖGBの発表によれば、全国1万8千カ所の企業と官庁から100万人以上がストに参加した。公共機関に限っても次のような状態が起こった。(1)鉄道とバスの旅客輸送全日スト(5月6日にはなかった)。(2)公営交通ストップ(ウィーンとザルツブルクは全日)(3)空の便の欠航、(4)全学校のスト、(5)幼稚園、全日あるいは半日の休園(ウィーンでは367ヵ所、園児3万6千人休園)、(6)国境の通関手続き中止、(7)ウィーン、グラーツ、ザルツブルクでごみ収集なし、(8)7時から17時まで電話案内なし、(9)公共広場での労働者・市民集会、(10)配達センターのストによる郵便物の遅配、(11)朝9時ごろウィーン市内の銀行の共同抗議行動。
 「第2共和国最大のスト」と言われたこのゼネストは、おそれられた混乱・突発事故もなく終った。「組合は、人間に対して向けられている改悪措置に反対する行動を、議会の決定があっても続ける」とÖGB議長は述べた。ストの準備・決行の中で各組合は「かつてない組合員の殺到」・新加入を見たと言われる。
 6月4日、シュッセル首相は国民議会での説明で原案の緩和点を明らかにした。年金給付の減少を10%以下に抑えること、早期年金は2013年でなく2017年までに廃止すること、少額年金者にたいし負担軽減措置をとること、政治家年金への課税率を高めること、などであった。首相は、前日のストについて、数十万の人たちが不安からこうした行動をとったことを認める、と述べた。
 6月11日、国民議会は年金改定案を承認した。新聞『スタンダード』紙は、「自由党と公務員への贈り物が年金改革を救う」と報じた。自由党への贈り物は同党の強い主張であった政治家年金の削減であった。公務員へのそれは、雇用者年金を上回る公務員年金について、一律に最大10%の削減に抑えた点であった。因みに公務員組合の委員長は国民党議員でもあり、議会での投票では最終的に賛成を投じた。
 成立した「年金改革」(法律は「予算付随法」)は以下の基本点を定めた。(1)現在35歳以上の者について年金減額を最大10%に抑える、(2)2014年までに早期年金を廃止(現行女性雇用者56.5歳、男性雇用者および公務員61.5歳)。04年から1年につき4ヵ月早期年金受給年齢を引上げる(前述した首相の議会説明と異なる)。(3)早期年金の減額率を04年から4.1%に引上げる。(4)09年から保険料納付期間45年で通算期間の平均所得の80%年金(現行40年)。(5)2028年までに通算期間を40年に(現行では雇用者は15年、公務員は最終で報酬ベストの1年)。(6)Hackler(負担の重い職業従事者)への特例――保険料納入期間男45年、女40年で06年まで男60歳、女55歳の早期年金受給を認める(07年にそれぞれ1歳半引上げ)。(7)雇用者の保険料の最高限度額を30ユーロ引上げ3390ユーロとする。(8)制度間調整――現在35歳未満者を統一年金制度に(年内に法案準備)。(9)「危急基金」として04年1000万ユーロ、05年1600万ユーロ、06年1800万ユーロ。
 6月23日、法案は連邦参議院でも承認された。法制定にふれてÖGB議長は次のように語った。政府の非社会的な年金削減計画は確かに阻止できなかったが、しかしÖGBと傘下の組合は組合のもつ闘争手段によって、いくつかの緩和を達成することができた、と。さらに10月に、ÖGBは年金制度の「未来モデル」を発表した。保険料指向でなく給付基準の制度を守るとし、政府が計画している各年度の年金額調整の廃止を断固阻止し、物価上昇率スライドに戻すことが提案される。そして制度の骨子としては、正規の受給年齢を65歳とし、保険料納付期間45年を満たせば、平均報酬の80%年金、また61.5歳の減額早期年金を受給できるとしている。さらに制度間調整については統一保険料・統一給付を目指すとしている。ÖGBは政府の次の制度改悪に警戒を強めている。

順法闘争、12時間警告スト、66時間ゼネスト − 民営化に反対する鉄道労働者のたたかい

 オーストリアの鉄道は「オーストリア連邦鉄道」(ÖBB)と呼ばれ国有である。現在の従業員は4万7200人、その90%は公務員身分にある。政府は03年秋、かねてからの懸案であったこのÖBBの民営化を政治の焦点に押し出した。前年秋の政変によって先送りされていた政治日程の本格化である(本報告第9集参照)。
 10月1日、政府の民営化計画案の発表を前にして、「鉄道員組合」(GdE)と運輸省当局との話し合いがもたれたが物別れに終った。そして翌日、計画案が正式に発表された。それは民営化の第1段として、(1)ÖBBを「オーストリア産業持株会社」(ÖIAG、政府機関)傘下の人員輸送、貨物輸送、インフラ(建設と営業・保線)の4株式会社に分社化する、(2)2010年までに1万2千人を削減する。うち7千人は年金退職を待つことにするが、残る5千人については新設の「人材管理会社」に移し、そこでの転職訓練、派遣などを通じて削減する。(3)現行の「私法上の勤務協約」を廃止し、新たに法定の「服務規則」(勤務法)を作る、以上の3点を骨子とするものであった。
 組合は直ちに抗議声明を出した。「われわれが提起した社会的対話の道では、政府代表に柔軟性がなくなんの積極的解決にもいたらなかったからには、そしてまた、政府が鉄道員の団体協約上の諸規定と私法上の諸契約へ介入し、ÖBBにおける雇用者の共同決定をオーストリアの労働体制の水準以下に抑えこもうとしていることが見てとれるからには、われわれは――予告した通り――残業を中止し、さらに加えて業務遂行において規定通りの勤務を実施する」と。
 「われわれは私経済でのように、ノーマルな労働法が適用される全くノーマルな企業をつくろうと思う」。10月2日、計画案の細目を提示した席上でゴルバッハ運輸相(自由党、副首相を兼ねる)はこのように語った。「ノーマルな企業」にするために、分社化と抱き合わせで、予め鉄道員の労働協約権(1920年代に確立したと言われる)を新法で縛ろうとするものであった。新しい「勤務法」は次の点を内容としていた。(1)解雇告知保護および配置保護の緩和、(2)現行の2年ごとの昇給を廃止し賃金を凍結、(3)現行の残業・特別有給休暇規則の引締め、(4)疾病時賃金継続払いの削減――現行1年を6週間、最大6ヵ月に、(5)「職員代表」(民間の「事業所委員会」委員に相当)の権利縮小――現行2200人(うち専従134人)を1400人(109人)に削減、共同決定権も制限。政府は上記の諸点を鉄道員の「特権」だと言いたて、これを民間並みにする法制が必要だと強弁した。

◆「順法闘争」から12時間警告ストへ
 組合は10月6日(月曜)から「規定通りの勤務」(Dienst nach Vorschrift、「順法闘争」)として残業拒否に入ることを決定した。組合はこれによって4本に1本の列車が運休になるとし、週半ばから貨物輸送、翌週半ばから旅客列車についてそれを本格化すると予告した。
 ここでÖBBの残業について見ると、当局の発表によれば、02年の全残業時間は410万時間で1人当りでは年間85時間であった。そのうちの4分の1は機関士を中心とする輸送関係で旅客輸送が16%、貨物輸送が7%を占めた。また保線部門が17%であった(各部の一人当りの残業分布は示されない)。03年の上半期全体の残業時間は190万時間で、年間予想ではやはり400万時間を超えるとされた。一方組合側は年間残業時間を630万時間と推計し、とくに機関士の残業は1人あたり月に30―40時間、週に15時間以上になることもあると主張した。
 組合の残業ボイコットの動きに対し、運輸相は法案の「審査期間」中であることを理由にその中止を訴えるとともに、10月15日に関係政労使の円卓会議を呼びかけた。円卓会議の結果は使用者側が政府計画に基本的合意を示し、組合をさらに硬化させた。会議で組合は「対案」を提出さえした。「服務規則」の法制化を撤回し、団体協約上の合意事項とすること、もし分社化に進むとすれば、その場合には「持株会社」の権限を強め、分社も営業とインフラの2つの有限会社にとどめること、の2点を提起し、法案の撤回を要求した。「対案」は無視された。
 「円卓会議」の決裂を受けて政府は法案の審議日程を決定した。11月3日法案の「審査」終了、11月11日法案を閣議決定、12月3/4日国民議会本会議、12月18日参議院本会議、04年1月1日新法実施。
 10月20日(月曜)、組合は先の「円卓会議」での「対案」を全面撤回し、法案の審議日程をにらんで抗議行動を拡大することを確認した。残業拒否と「順法闘争」が強化され、30日には客車23本、貨物20本以上、翌31日には客車41本が運休した。同日、組合は11月4日深夜0時から12時間の警告ストに入ることを予告した。
 
11月4日、組合は12時間ストに突入し、列車とバスが全面運休、70万人の足がとまった。各地の学校は休校となった。午後0時19分、ストは「模範的に」(組合委員長)経過し、スト破りも事故もなく終了した。

◆66時間のゼネストへ、そしてポストバスも合流――「勤務法」制定を見送らせる
 11月10日、政府と組合の交渉がもたれたがなんの進展もなく、新たなストが必至となった。しかもこのストにはポストバスの労働者も合流することが決定的となった。
 ポストバスがÖBBに移管され鉄道バスと合併すること、合併後その1部路線を民間に売却する政府の方針があることは、本報告第9集で取上げた。11月6日、ポストバスの監査役会は議長提案を承認し、1部路線の民間への売却を決定した。ポストバスの事業所委員会は、この決定を監査役会による「企業の実務への介入」であり違法であるとし、ストと告訴を予告した。
 11月12日午前0時から14日17時40分まで鉄道員組合は66時間に及ぶゼネストを実施した。初日にはポストバス組合も連帯し24時間ストを打った。新聞報道によって1日当りのストの規模・影響を見ると次のようである。ÖBBの鉄道とバスでは7500本の列車と800本のバスが運休、その影響を受けた乗客は鉄道50万人、バス22万5千人。貨物の運休1日30万トン。そして12日のポストバスについてはバスの運休が1570本、乗客50万人となっている。オーストリア全土を巻きこんだ文字通りのゼネストであった。
 11月14日夜、組合はスト終結を決定した。同日夜から列車は動き始めたが、ダイヤが完全に復旧するには2週間はかかる、と組合のハーバーツェトル委員長は語った。
 ストはもともとは非公式の話し合いであった政府側(ゴルバッハ運輸相他)と組合側(ハーバーツェトル委員長、労働総同盟フェルツェトニッチュ議長他)の14日終日の交渉の中で、ひとまずの決着を見た。交渉の焦点は将来の鉄道の構造と「勤務法」の問題であったが、政府側は「勤務法」の制定を見送り、04年3月末をメドに組合とÖBB当局による「勤務協約」の締結に委ねることになった。一方、4社への分社化は予告通りとされたが、法律による民営化はしないと政府側が約束し、今後に含みを残した。シュツセル首相はこの交渉結果を受け入れた。
 当面のこの決着について、社会民主党のグーゼンバワー党首は「組合の断固たる態度が決定的」だったとし、「理性が勝利した」と語った。緑の党は「安堵と懐疑」を表明した。総同盟議長は構造改革プランには「対案」を議会審議に向けても提起していくと述べた。新聞『スタンダード』は「双方の顔を立てた妥協」、「小休止の始まり」とコメントした。
 12月4日、国民議会は「勤務協約」の課題を労使に預ける形でÖBB改組法を議決した。ハーバーツェトル委員長はこの日を、「鉄道員の歴史における服喪の日」と語った。

賃金協約から ― 協約最低賃金、新賃金スキームなど

 03年の協約ラウンドで注目されるのは、1つは最低賃金の協約化(ホテル・旅館業)であり、1つは労働者と職員の賃金体系を一本化する「新賃金スキーム」のそれである(電子工業)。
 この国には現在、法定最賃制はない。あるのは団体協約法における協約最低賃金の効力拡張の制度である。ホテル・旅館業は03年協約でそれを締結した。その背景には次の経過があった。
 03年2月末の国民党・自由党の第2次黒・青連立政権の発足にあたって、両党はその「政府綱領」の第8章「労働と福祉」に最低賃金導入の1項を置いていた。「われわれはすべての男女雇用者のフルタイム労働にたいし、月額1000ユーロの最低賃金が与えられるべきだと考える。したがってわれわれは団体協約当事者たる社会パートナーに、相応の規定を団体協約に定めることを要請する。その場合とくに、当該部門での職場が確保され続けることが守られるべきである」。このような政策協定があったものの、その後の経過では国民党内に異論が出て、政府与党が協定の実施に積極的に動くことはなかった。公式統計によると賃金1100ユーロ未満者は男性11%、女性39%にのぼるとされる。
 03年協約ラウンドで、最低賃金1000ユーロを要求したのは、ホテル・旅館業(7万人)と小売業(35万人と隣接職業の10万人)であった、そして前者は初めて1000ユーロ最賃の協約化を勝ち取った(当事者組合は「ホテル・旅館・対人サービス労組」GHGPD)。賃上げ率では2.8―3.1%アップに相当し、部門全従業員の45―50%がこの該当者だと言われる。掃除人、ルームメイド、観光季節労働者などである。1000ユーロ最賃受給者以外の賃上げ率は2.15%であった(5月1日実施)。
 一方、小売り業では前年実績の2.1%以上の賃上げと1000ユーロの最賃、そして年央の閉店法改定による土曜の時間延長への割増しが要求された(当事者組合は「サラリーマン組合」(GPA)。2回目の交渉が2日連続で行われ11月6日に、1.9%の賃上げと土曜延長分の割増しは協約化されたが、最賃の取決めはされなかった。因みにオーストリアの開店法は、大枠は連邦法で規定されるが、実施は州知事の権限である。
 秋には金属(18万人)と電機(5万8千人)の妥結が続いた。前者は2.1%の引上げとクリスマス手当を獲得した。後者は平均2.5%の賃上げで、具体的な適用は、2.3―2.9%の間で経営レベルでの能力指向の配分をするものとなった。ところでこの協約でとくに注目されるのは、「新賃金スキーム」の名で、(生産)労働者と職員の単一の賃率表をつくることに合意した点であった。そしてこの合意に基づいて専門委員会が設けられ、委員会は12月12日に「統一給与表」を確定した。それによって労働者と職員の給与は11の雇用者グループに統合・格付けされることになった。移行規定を含んでのこの協約は、04年4月1日の実施となる。ドイツの金属の場合と同じ動きがここに見られる。(本報告ドイツの項参照)(島崎晴哉)