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国旗 世界の労働者のたたかい
ドイツ
2004

 03年ドイツのキーワードは「アジェンダ2010」(議事日程2010年)である。前年9月の總選挙で辛勝し発足した社会民主党(SPD)と90年連合・緑の党(90/Grüne)を与党とする第2次シュレーダー政権が、3月14日の連邦議会で発表した施政方針がこれである。「国家給付を減少し、個人の自己責任と自助努力を促進する」ことにより「社会(福祉)国家の建て直し」を計るという提案である(社会国家の規定は基本法〔憲法〕第20条「ドイツ連邦共和国は、民主的、かつ社会的連邦国家である」に由来する)。労働市場および労働行政の「改革」を提案した前年の『ハルツ委員会報告』が、「助成するが要求もする」を中心スローガンにしたのにたいし、「アジェンダ2010」はそれをさらに超えて、労働者・国民の自主・自援をひとえに求めるところに進んだ。
 ドイツ経済はその低迷から脱け切れないでいる。企業倒産は史上最高を記録している。大量失業は2月に470万6千人、11.3%となり、シュレーダー政権発足以来の過去5年間で最高となった。失業は03年下期には若干の減少を見たが、年間平均では437万6千人、10.5%で過去最悪の97年に並ぶ高水準にとどまった。しかも下期の減少の大勢は景気回復によるというよりも、雇用政策による統計からの失業減であったことは政府も認めるところであった。職安の紹介窓口強化による失業減である。さらにヨーロッパ連合(EU)との関係では財政赤字の問題が深刻化していた。EUの「財政安定協定」は加盟国の財政赤字を国内総生産(GDP)の3%以下に抑えることを義務づけている。ドイツの財政赤字は03年4.2%。このまま推移すれば04年を含めて連続3年の3%以上が予想された。出された打開策が「アジェンダ2010」であった。
 「アジェンダ2010」を発表するにあたり、「それは多くの者に痛みを与えるだろう」と首相は述べた。まさにその通りで、それはこれまで築き上げられてきた労働権・社会権を大きく崩す方向での危機打開策であった。「新自由主義の毒がその破壊力をすべての党派に拡げた」とドイツ労働總同盟(DGB)のゾマー議長はそれを批判した。統一サービス産業労組(ver.di)は「社会的皆伐」という新語で「アジェンダ2010」の政策方向を特徴づけた。
 シュレーダー首相は「進退をかける」の威嚇で与党内の反対派を封じこめ、議会内では時に保守野党にも救われる形で既定の路線を強行した。労働組合は言わば「議会外野党」の役割を担うことになった。組合と連邦政府、とくにその与党SPDのあいだにはこれまでにない亀裂が走った。「アジェンダ2010」の政策内容とその実施については後述する。

戦争の悲惨さ知る者として ― イラク戦争反対、派兵しない

 社会民主党・高齢者部会(SPD60プラス――60歳以上者)が2月14日にイラク戦争に反対する声明を出した。「自らの体験から戦争の悲惨さを知っている高齢者」として、差し迫った戦争の危険を深く憂慮し、紛争の平和的解決のため、あらゆる政治的外交的手段をくみ尽くすことを訴えている連邦政府への支持を表明するものであった。
 「イラク戦争反対」、ドイツ国防軍の「戦争不参加」の世論はこの国で圧倒的である。政府もこの世論に呼応し支えられて不戦の方針を一貫させている。反戦行動はさまざまな都市でさまざまな形をとって繰り返されている。1月から始まったライプチヒの「月曜デモ」は4月の復活祭まででも14回を数え、延べ30万人が参加した。ドレスデンでは3月上旬に「平和週間」が実施された。カーニバルのねり歩きが反戦デモに変る光景も見られた。労働組合はその独自行動として「10分間」の警告ストを展開した。それは欧州労連(ETUC)の決定に呼応してドイツ労働総同盟(DGB)が呼びかけたもの。「12時10分前、戦争が差し迫っている」のモットーで取組まれたこの行動には、金属労組(IG Metall)など各組合が参加し、「戦争に反対する警告の10分」を実施した。ノルトライン・ウェストファーレンで10万人、ニーダーザクセンで5万人、シュツットガルトで2万人など、大規模のいっせい行動となった。連続するこうした反戦行動の中で、全国動員の規模でのまさに記念碑的な集会が2つ挙げられる。2月15日と3月20日のベルリン集会である。

◆反戦史上空前、参加者50万の2.15ベルリン集会
 イラクへの軍事介入に反対する世界規模の抗議行動が、1150万人と言われる参加者によって展開された2月15日に、ドイツでは首都ベルリンで50万人の集会とデモが行われた。前年フィレンツェで開かれた「欧州社会フォーラム」の決定によって準備されたこの日の「欧州反戦デー」は、欧州の枠を超えて「史上最大の平和デモ」の日となった。同日、ドイツではベルリン集会のほかに、シュツットガルトで5万人集会、さらにハイデルベルク、マインツなどでもデモが行われ、参加者は全国で60万人を超えた。
 ベルリン集会は平和団体、労働組合、政党、芸術家団体など40以上の組織の呼びかけによるものであった。50万人の結集は主催者側自身にとって10万人の予想をはるかに上回るものであった。しかもこうした集会の場合およそ考えられないことであるが、主催者と警察は一致して参加者50万と数えていた。全国から300台のバスでの参加者を加えた大集団は、ブランデンブルク門を狭んで目抜き通りを埋めつくした。数キロにわたる長蛇の列となった。戦勝記念塔近くの閉会集会では、発言者たちは国連武器調査団の折りからの現地調査報告に従って、アメリカがイラク攻撃を断念するように訴えた。
 集会では、連立政府の閣僚の参加も注目された。開発相(社民党)、消費者保護相と環境相(緑の党)の場合である。シュレーダー首相は閣僚たちが集会に参加しないよう勧告していたが、結局は彼らの個人的判断に従った。集会には連邦議会のティアーゼ議長も加わっていた。野党はそれを「恥辱」とし、党政策上の自制への義務を傷つけるものと非難した。「連邦議会議長でも意見はもてる、それを自分に禁ずることはできない」と議長は反論した。
 2月17日、「ヨーロッパ連合」(EU)の緊急首脳会議は、イギリスも含めての全会一致で平和手段によるイラク問題の解決を決議した。

◆ベルリンで史上最長の「明かりの鎖」―アメリカの持続する戦争準備に抗議して10万人デモ
 3月15日、世界各国の反戦ウェーブに合わせ、ドイツ各地でも反戦平和行動が実施された。ベルリンではこの日も主催者の予想を上回る約10万人の参加でろうそくの光を連ねる「人間の鎖」がつくられた。青年、労働者、老人、平和活動家、宗教家らが、思い思いのろうそくをもって集まり、夕刻の7時ころからブランデンブルク門を中心にして、「イラク戦争反対」の横断幕を照らし出す「明かりの鎖」を現出した。この人間の鎖は35キロにも及ぶ戦後最大のものとなった。
 この日、フランクフルト近郊のアメリカ空軍基地のゲート前では約千人が参加して座りこみを行った。またニュルンベルクでは約4千人のデモ隊が旧市街で「平和の輪」をつくった。
 3月20日、米英軍はイラクへの武力攻撃を開始した。この「Xデー」に対して連日の抗議行動が起こった。それは年を通じて続く。「この戦争を止めさせようとする努力が敗れはしたが、その今こそ、人類は問題が平和的に決められることを望む、ということが示されなければならない」。「統一サービス産業労組」(ver.di)のビルスケ委員長はこのように訴えた。

「アジェンダ2010」(「議事日程2010年」)― 首相、社会保障改悪を提案

 「戦争に反対する警告の10分」が労働組合によって各地の企業で取組まれた同じ3月14日に、シュレーダー首相は連邦議会で施政方針演説を行った.それは「アジェンダ2010」と名づけられ、「社会(福祉)国家の建て直し」の名での社会保障の「抜本改革」を主要内容とするものであった。
 これより先、首相は2月下旬に円卓会議「雇用のための同盟」の開催を労使双方に打診した。しかしそれは、使用者団体の側が、協約政策を取り上げることを会議開催の前提として要求し、組合側がこれを拒否したために開かれないままに終った。総同盟のゾマー議長は「雇用のための同盟は協約政策を論議する場ではない、それには協約交渉がある」と述べた。また統一サービス産業労組(ver.di)のビルスケ委員長は、「協約政策は同盟の出る幕ではない」と言い、労働組合は「同盟で合意された控え目な協約締結との引換えで雇用の創出をしたいわゆる雇用指向の協約政策の悪しき経験をもっている」と語った。委員長は1996年のコール政権下の経験を引合いに出して反対したのであった(本報告第3集参照)。首相は3月3日に「同盟」を召集した。しかし会議は労使双方の意見が平行線をたどるだけに終った。それを機にして首相は、「早急の行動が必要である、3月14日に改革プログラムを提出する、それは多くの者に痛みを与えるだろう」と述べた。
 2003年を迎えてこの国の大量失業は減少に転ずることなく増勢を続けていた。2月には470万人強、11.3%で、東西ドイツ統一後2番目の高率を記録するまでになっていた。直近の地方選挙では、ニーダーザクセン(シュレーダー首相が元首相であった)、ヘッセン、シュレスヴィヒ・ホルシュタインの各州で、社会民主党は連続して大敗を喫していた(5月のブレーメンでは勝利したが、秋のバイエルン州では大敗、ブランデンブルク州の自治体選挙でも前回の第1党から大きく第2党に落ちた)。さらに欧州連合(EU)の財政安定協定にも抵触する財政赤字3%以上の現状を打開する課題にも迫られていた。こうした状況下に「アジェンダ2010」は提起された。
 「平和への勇気と変化への勇気を」と題された演説の導入部で、武器査察強化に賭ける国連のイラク政策を擁護し、紛争の平和的解決は可能だと述べた後、首相は「変化への勇気」への訴えに本論を集中する。以下のような社会・労働市場政策の全面的改変が提起された。
 (1)解雇規制法の緩和――従業員5人以下の企業について、有期雇用者であれば解雇告知保護の適用を受けずに制限なくそれ以上に雇用できるようにする。
 (2)失業扶助と社会扶助を統合し「失業手当K」とする――現行の失業扶助は失業保険給付の失業手当の受給期限切れの場合に扶助として支給されてきた。社会扶助は日本の生活保護に相当。提案は稼働能力のある社会扶助受給者と失業扶助受給者とを統合し、その支給額も社会扶助のそれに合わせようとする。
 (3)失業手当の削減――これまで最長32ヵ月であった給付期間を、55歳以上で18ヵ月、55歳未満で12ヵ月に短縮。
 (4)病気休業補償制度(疾病手当)の使用者負担部分を廃止――医療保険制度における保険料労使折半の原則の取崩し。
 (5)手工業法の見直し――伝統的なマイスター(親方)制度の規制を緩和し、マイスター資格を要しない業種を拡大する。またマイスターによる後継者養成の仕組みを変え、一定期間を経た職業経験者に拡大する。
 首相提案は以上に尽きるものではない。職業訓練口の拡大が求められ、雇用創出のための復興金融機関への投資計画も紹介された。さらに明示的ではなおなかったとしても重大な言及としては広域労働協約の柔軟化の要望(「協約自治」への介入)、また年金制度の見直しが含まれていた。
 「アジェンダ2010」は労働組合の強い批判を呼び起こした。組合は政府・社会民主党への対抗力を強め、法案の提出・審議に向けて「秋の対決」を掲げた。与党内からも反対意見が上がった。

03年協約運動から

 03年はいわゆる「残部協約ラウンド」(「残部議会」の故事からきた用語)の年に当たった。多くの協約分野で賃金交渉のない年となった。前年の協約ラウンドで有効期限が03年にも及ぶ妥結が行われたためである。金属、銀行、建設、公共部門などがそうであった(本報告第9集参照)。
 しかし03年協約運動にはいくつかの特徴が見られた。1つは公共部門についてであるが、同部門の協約妥結は03年1月に入ってのことであった。前年の協約に数えられるはずの交渉が難航し、越年・調停の経過をだとった妥結であった。しかも妥結直前にベルリン(州に相当)が交渉当事者である使用者団体から脱退し協約逃れをするという異常事態も加わった。このためにベルリンは組合(ver.di)によって告訴され、労働裁判所から敗訴の判決を受け、協約交渉を改めて継続し、1月協約に沿った個別協約を結ぶことになった。
 第2に「金属労組」(IG Metall)の場合である。前年妥結した賃金協約が有効期限内にあることもあり、組合は東ドイツ地域の鉄鋼・金属産業への週35時間制の導入――西ドイツ側との平準化――を要求課題とした。しかしこのたたかいは組合側の敗北に終った(後述)。
 第3に挙げられるのは派遣労働について初めて協約が実現したことである。労働総同盟(DGB)が組合側の当事者となり、2つの派遣企業連合との間で労働・所得条件を規制する協約が締結された(後述)。
 03年の協約運動は、金属労組の場合に示されるように、政治・経済状勢の不利な条件下で展開された。経済は停滞を続け、景気予測は早々に下方修正された。大量失業は前年をさらに上回る状況にあった。政治の展開も協約運動への逆風となった。「アジェンダ2010」はその頂点であり、そこでは既得の労働権・社会権への「切開」が宣言され、「協約自治」への介入さえ示唆された。協約運動は賃上げ要求を前年水準より下げてのものがほとんどとなった。数値化された要求を掲げないケースも見られた。

◆小売業の場合 ― 閉店法のまたしてもの自由化がからみ長期交渉に
 「閉店法」の規制がまたしても緩和された(4月11日成立、6月1日実施)。土曜日のこれまでの16時閉店が20時にまで延長された。3月に協約の有効期限が切れた小売業(250万人、大半は女性労働者)の当事者組合・統一サービス産業労組(ver.di)は、4.5%の賃上げ要求とともに、閉店法改定にともなう一連の労働時間・就業条件の調整のそれを含めての交渉態勢を組んだ。さらに組合は下級賃金の底上げを測るために最低賃金月額1500ユーロ(1ユーロ約135円)の固定化を要求した。
 交渉は難航した。組合はとくに閉店法改定の時期に前後して、各地区の400以上の企業で警告ストを展開した。5ヵ月にわたる協約紛争ののち、7月16日にハンブルク地区で「パイロット妥結」が実現した。組合中央も合意したその主な妥結内容は次の通りであった。(1)03年5月―7月の3ヵ月賃上げなしで、8月1日から1.7%引上げ、(2)さらに04年の8月1日から同じく1.7%の引上げ、(3)下級賃金グループについてはそれぞれ1.83%の引上げ、(4)協約の有効期限は24ヵ月。さらに閉店時間延長にたいする補償については次の取決めがなされた。(1)土曜3回につき1回の休日、最低月1回を保障、事業所委員会との協定で別の取決めも可能。(2)土曜勤務者について14時30分から20時までは賃金は20%の割増し、但しクリスマス期間中の土曜を除く。(3)平日の18時30分から20時についても20%割増しを適用する(これによって週労働時間は事実上37.5時間から36時間に短縮される、とver.diの専門家は述べた)。
 「ver.diにとってこの新しい協約はシグナル効果をもつ」と担当執行委員は強調し、使用者側がこの合意を基礎として遵守し、とくに東ドイツ地区で手を引くようなことが起こらないよう要求した。ハンブルクの交渉リーダーは「われわれはこの成果を誇りとする」と述べた。

◆「大きな敗北と小さな成果」――IG Metallの場合
 見出しはDGBに近い「経済・社会科学研究所」(WSI)の「協約概況」の評言。「大きな敗北」とは東ドイツ地域における週35時間制についての基本協約改正要求の挫折であり、「小さな成果」とは前年の賃金協約の妥結内容の1部であった「報酬基本協定」(ERA)が2つの協約地域で合意され、最終的実施となったことである。上記評言には含まれていないが、そしてIG Metallだけの反対運動の成果とも言えないが、03年末の議会における「協約自治」制限法案(野党提案)を不成立に終らせたことも「成果」に加えることができる(後述)。
 「敗北」について――IG Metallのツヴィケル委員長は6月28日、16時間に及ぶ労使交渉が決裂したことを明らかにするとともに、東ドイツ地域での週35時間制を要求して行っていたストライキを30日から中止するよう呼びかけた。6月2日からザクセン、ベルリン、ブランデンブルクの各地区で続けてきたストの中止指令であった。
 これより先、組合は前年の賃金協約妥結後の重要課題として、旧東独における時間短縮――現行週38時間を西独地域並みの35時間に――を掲げた(金属31万人、鉄鋼8千人)。改定交渉は2月下旬から開始されたが、4月末の平和義務終了後もなんの進展も見られなかった。組合は5月12日の交渉決裂を機にスト権集約に移り、組合員多数の同意を得て6月2日からストに入った。
 ストの継続中の6月7日、鉄鋼部門では合意が成立した。09年までに3段階で35時間週に移行することの合意であった。しかし金属部門では進展なし。組合はスト拡大方針をとったが、その間に西ドイツ地域の自動車工場で、部品調達不能を理由に生産停止が起こった。ミュンヘン、レーゲンスブルクのBMW2工場(1万人の一時帰休)、ヴォルフスブルクのVW本社工場がそれであり、これを機に首相も含め各界からのスト批判が一気に高まった。スト破りも一部に起こった。6月26日に労使のトップ会議が行われ、それを受けて翌日再開された交渉でスト中止、協約交渉の終結が決定された。この終結は「1954年以来の全面敗北」と言われた。
 「敗北」は組合指導部の責任問題に発展した。次期委員長に内定していたペータース副委員長のスト指導をめぐって紛糾した。ツヴィケル委員長はその調整を果せず任期を待たず辞任した。10月に予定された定期大会を続開とする形で8月に組合大会が開かれペータース委員長、フーバー副委員長の新執行部が発足した。
 「敗北」は「広域労働協約」の見直し機運に増勢を与えた。野党、使用者団体、さらには首相までがそれに言及した。西の労働時間を東に合わせて38時間にという延長論が台頭した。IG Metallは大きく組合員を減らした。組合側の発表で7月末までのその年の組合員減は8万7500人、6、7月だけで3万人弱の減少であった。組合員総数は256万人となり、270万のver.diと最大労組の位置を交替した。
 「成果」について ――ストライキ紛争と時期を重ねて、組合は2つの協約地域で今後に影響するところの大きい協定を獲得していた。02年協約に含まれた「報酬基本協定」(ERA)の実施具体化である。同協定は類似の資格をもつ労働者と職員の間の所得格差を解消しようとするもので、02年協約ではそのために賃上げ率の1部がプールされた(本報告前号参照)。6月初めに北ドイツ(「海岸地域」地区)で、次いで6月末にバーデン・ヴュルテンベルク地区でERAの実施が合意された。労働者(Arbeiter)と職員(Angestellte)の区分が廃止され、すべての雇用者が同じ基準で支払われることになった。「130年以上にわたって行われてきた雇用者の労働者と職員への区分が廃止される」と新聞は報じた。
 付言すれば、10月20日に北西ドイツの鉄鋼部門の協約が妥結した。第5次の10時間交渉で次の合意を見た。(1)03年9―12月について140ユーロの一括払い、(2)04年1月から1.7%、同年11月からさらに1.1%の賃上げ、(3)協約の有効期限は03年9月からの19ヵ月。
 11月27日、組合は次期協約ラウンドの要求額を4%と決定した。そして12月15日に交渉をスタートさせた。使用者側は要求を拒否、賃金調整なしの労働時間延長を逆提案した。年を越えて厳しい交渉が予想される。

◆派遣労働者の労働協約合意
 DGB傘下組合が設置した「派遣労働協約団」は2つの派遣企業連合と初めての賃金協約を締結した。「ドイツ派遣・人材サービス連合」(BZA)および「派遣企業利益連合」(IGZ)の両団体との協約で、前者は5月27日と6月11日に、後者は5月29日にそれぞれ合意された。
 「協約史上で初めてDGB傘下全組合の協約団が1つの協約成果を獲得した。これによってDGB傘下組合は、困難な経済環境にあっても協約政策上の革新が可能なことを立証した」。ver.diのマルグレート・メーニヒラーネ副委員長はこのように述べた。BZAとの協約を例にとると、合意された内容は大略次の通りである。賃率は技能資格・経験によって9つの等級グループに区分された。例えば第1グループは「短期養成期間を必要とする」業務、第9グループは「大学教育・単科大学教育および数年間の職業経験を必要とする」業務とされ、それぞれのグループについて時間単価が決められた。例えば04年1月1日からの第1グループのそれは6.85ユーロ、第9グループのそれは15.50ユーロである。グループごとの時間単価については07年まで毎年2.5%の引上げも決められた。したがって第1グループのそれは07年には7.38ユーロ、第9グループの場合は16.69ユーロとなる。さらに派遣労働者は派遣先企業での就業期間に従って、3ヵ月区分で時間給にたいする追加手当を受け取るものとされた。3ヵ月後に2%、12ヵ月後には7.5%が上積みされることになる。今回は取決めにいたらなかったが、05年からは部門別の追加手当も協定される見通しである。なお東ドイツ地域については減額された等級表が適用される。06年に東西の平準化について交渉の開始が予定された。
 前年、いわゆる「ハルツ委員会報告」に基づく法制化の最初のステップとして、職業安定所は「人材サービス機関」(PSA)に編成替えされた。PSAはその業務の一環として、自前で、あるいは委託して、派遣業務を行うことになった。主としては長期失業者の就労促進を目的とする。DGBが締結した今回の協約は、派遣労働者の労働条件規制に先駆的な役割を果す。一方でそれはPSA業務の助長となる面をもつ。政府筋はそれを期待している。

メーデーに100万人 ― 「アジェンダ2010」に抗議

 ’03年のメーデーは「アジェンダ2010」に対する大衆抗議の場となった。参加者は前年に比べて倍増し全国で100万人を数えた。
 ドイツのメーデーは組合指導者が分担して出席し挨拶する形で各都市並行開催となる。定形の「中央メーデー」はなく、毎年注目されるのは政界トップが来賓として招かれる会場である。この年シュレーダー首相はヘッセン州ノイアンシュパッハ(フランクフルト近郊)のメーデーに出席し、同会場(参加者7千人)で労働総同盟のゾマー議長と同席した。議長は、首相が前任者コール(キリスト教民主同盟)によって始められた福祉解体を、それが失業の不断の増大を伴っているのに続けているとし、「そこで君に訊ねる、いったい君は、今度はそれが別のものになるという期待をどこから得るのか」と言い、また「この処方箋は全く誤っている」、失業者給付の計画されている削減、解雇規制の緩和、疾病手当の民営化では1つの職場もつくられない、と批判した。
 これに対して首相は、「アジェンデ2010」が計画している切開は、ドイツを社会の高齢化とグローバル化による諸変化にフィットさせるために必要だとし、「昔ながらのものに固執すれば足りると思う者は、世の挑戦を見誤る」と述べた。首相は組合側の景気対策のための投資計画についても、次世代に負債を回すものだとして拒否した。双方の主張は平行線のままに終わった。
 ハノーヴァーのメーデーでは、次期委員長に内定しているIG Metallのペータース副委員長が 「シュレーダー改革」は「使用者へのうん番目かの贈り物」であり「雇用者へのうん番目かの処罰」だと述べた。「統一サービス産業労組」(ver.di)のビルスケ委員長はハンブルクで、政府は「むき出しの福祉解体を改革政策として売りに出している」と非難し、景気政策のための投資を要求した。シュヴェーリン(東ドイツ地区)では1万人の若者たちがジョブ・パレイドで職業訓練口の拡充を訴えた。
 首相をメーデーに迎えた総同盟ヘッセン地区委員長は次のように述べた。連邦政府は経済的必要という隠れ蓑のもとで、雇用者、失業者、社会的弱者および年金者への圧力を強めようとしている、解雇告知保護も法定健保の連帯原則もDGBの視点からは語られないままだった、と。

女性労働の動向から

 1つは男女賃金格差について、いま1つは民間企業における男女同権について報告することにしたい。後者については本報告第8集で、民間企業における男女同権法の制定は第1次シュレーダー内閣の選挙公約であったこと、しかしそれは先送りされ、政府・経済界の合意で、同権の促進が企業の自発性に委ねられたことを報告した。それがどうなったかである。

◆女性の賃金は約30%低い
 3月8日は「国際女性デー」であるが、連邦統計局はこの日に合わせるようにしてこの国の男女賃金格差の調査結果を公表した。それによると製造業、商業、信用・保険業のフルタイマーの女性職員の02年平均月額報酬は2517ユーロ(1ユーロ=約135円)で、男性同僚との対比では100対70であった。製造業の女性労働者のフルタイムの場合は1837ユーロで、同様の比較では格差は職員の場合より少し縮小し、100対74であった。これを旧東ドイツ地域(新州)について見ると、フルタイマー女性職員は2035ユーロ(西との格差19.8%)、女性労働者1481ユーロ(西との格差19.4%)で、同地域の男性同僚との格差はそれぞれ23%、22%で、それは西ドイツ地域より小さかった。連邦統計局はこの格差の主要因を能力グループの差、就労分野の差によるとした(因みに日本の『世界の厚生労働2003』が「EU発表資料」として掲げるEU15カ国の男女格差統計は「公部門」も「民間部門」もドイツのそれが最も大きいことを示す。151ページ。なお「国際女性デー」の呼称は伊藤セツ氏による)。

◆民間企業での男女同権は「自発的」には進まなかった
 新聞『フランクフルト・ルントシャウ』の7月27日版に、「女性援助?誇大広告」という署名記事が載せられている。「私経済におけるチャンスの平等についての自発的合意は失敗であることがはっきりした」と副題にある。
 コルニーナ・エームンツによる同記事は次のように書き出している。「1つの小さな数字がこの数日、連邦家族省と労働市場・職業研究所(IAB)のいらいらの原因となっている。経営の僅か4.5%が女性援助および家庭と職業の両立を気にかけている。IABのこの実態調査結果は――内々にはすでに知られていたことだが――来週公表される。その数字は私経済における男女雇用機会均等促進についての自発的合意の署名者たちにとってひどい侮辱であるが、その署名者にはシュレーダー連邦首相もドイツ経済の中央組織のトップとともに名を連らねている。首相が自らの署名で私経済を本来計画されていた同権法から守ってやって丸2年になる」と。本報告第8集に1項目として取上げたが、民間企業での女性の同権化を企業内の自発性に基づいて進めるという合意が、政府(首相、経済相、家族相)と経済界トップとのあいだでなされたのは02年7月2日であった。
 IABは連邦雇用庁に付置された研究所である。同研究所が調査した結果の4.5%という数字を家族省側は公表を渋ったらしい。公表を決断したのは新任の研究所長アルメンディンガー女史であったと言われる。
 新聞報道は政府・財界の7月合意が合意のままに止まり、企業の「自己義務」を推進する手段を講じなかった経過にふれ、次のように論断している。「事態は逆説的である。一方では今日のように教育ある女性が多いことはかつてなかったし、ドイツの内閣にこんなに女性大臣が多いこともこれまでなかった。・・・・他方で労働市場の統計はいまだに全く別の言語を語っている。女性は比較可能なポジションの男性同僚よりも、平均して4分の1も少なく稼ぎ、しかも大部分のパートタイム労働関係と少なく支払われるミニジョブにはめこまれている。・・・・さらに加えてハルツ構造改革とアジェンダ2010が、女性が差別される危険を拡大している」と。労働組合については次のように書く。「しかし大改革(アジェンダ2010など――引用者)の諸結果は、組合の内部でさえ、女性の利益を考えてでなく、全く一般的に社会変化としてのみ論じられている」と。
 以上の新聞報道とは別に、10月段階での総同盟(DGB)の発表では4.5%は6.5%になっている。そしてエンゲレン・ケーファー副議長は、平等の労働条件のためのDGB行動網領の実施に向けて企業への圧力を強める、と述べている。

年金に切りこむ『リュールプ委員会報告』― 組合側委員は「少数派報告」で抗議

 前年12月に、政府の諮問委員会「社会保障財政の持続性のための委員会」(委員長ベルト・リュールプ〔ダルムシュタット工科大学教授〕の名をとり「リュールプ委員会」と呼ばれた)が設置された。「ハルツ委員会」の任務終了に引き続き、同委員会が労働市場と労働行政の抜本「改革」を提起するそれであったのにたいして、「リュールプ委員会」は社会保障制度――医療・介護および年金――の今後の在り方を財政との関わりで提言する課題を与えられていた。「われわれの課題は持続性であり、短期的な雇用問題の解決ではない」と委員長は述べた。委員会は26人で構成された。いわゆる学識経験者8名のほか、政労使および各種団体の代表が加わっている。組合関係者は総同盟(DGB)副議長エンゲレン・ケーファー女史、建設労組(IG BAU)のヴィーゼヒューゲル委員長、化学労組(IG BCE)協約委員会のフランツ女史、BMWのショホ全事業所委員会議長の4人であった。
 03年8月28日に委員会は本文237ページ、補遺38ページの答申報告を行った。同報告には組合関係委員の『リュールプ委員会の諸提案についての少数派所見』が含まれている。したがって委員会報告は『ハルツ委員会報告』が全会一致の形をとったのと異なり、「多数派報告」であった。以下には両報告の中心部分である年金制度についての論点を主としてみることにする。

◆「多数派報告」の提案
 ここで医療保険の法改定について一言すると、政府は本報告の出る1週間前に、すでに野党キリスト教民主同盟(CDU)の合意をとりつけて改定案を決定していた。それは次の内容であった。(1)保険料(労使折半)を減額(現行14.3%を04年13.6%、05年12.95%、06年12.15%)――賃金付帯コストの削減。(2)義歯は保険給付外とする。被保険者は追加保険か私保険に別途加入。(3)従来罹病7週目から支払われていた疾病手当は被用者の単独負担となり、06年から従来の使用者負担0.35%の保険料も被用者負担に。(4)患者はすべての給付に10%の追加払い(最小5、最大10ユーロ)――窓口有料化。(5)外来診療のためのタクシー代の保険払いの廃止、葬祭料・分娩手当、医学上の理由に基づかない不妊手術代の削除、など。給付の大幅削減のもとでの保険料率の引き下げ――使用者の賃金付帯コストの軽減が改定方向である。労使折半(パリティ)は実質上崩壊した(改定法は10月17日に成立した)。
 さて「多数派報告」の年金制度「改革」の主要点は以下のようになる。主眼となっているのは保険料を将来22%以上に上げない(現行19.5%)ために求められる制度変更である。変更がなければ、仮定される今後の人口統計的・経済的シナリオのもとでは保険料は24%以上になり、しかも年金水準は下がる、と。制度変更としては次の諸点が挙げられた。
 (1)受給開始年齢の引上げ――2011年から2035年までに毎年1ヵ月ずつ現行65歳から67歳に引上げる。(2)受給開始年齢67歳の場合も、3年に限り前倒しの受給(早期年金)を認める。その場合の減額は現行通り1ヵ月0.3%。(3)年金調整公式での算定基礎を組み替え「持続性係数」(保険料納入者と年金受給者の比率)を導入する。これにより保険料納入者が少なくなり受給者が増えれば年金調整は減額となる(賃金・物価スライドの事実上の棚上げ)。(4)04年年金調整を05年1月へ半年間遅らせる(保険料率を抑える名目で)。(5)総額標準年金水準は現在の税込み賃金の48%から、2030年までに41.6%に下がる。(6)世代間の負担の公正を高めるため、年金受給者は介護保険の保険料に追加して「調整保険料」を2010年から負担する(標準年金の場合、月額約20ユーロの追加負担)。
 以上が提案の骨子であるが、「報告」は保険制度における国庫負担部分については当然のことながらいっさいふれない。したがって税を財源とする基礎年金への制度転換も論外とされている。
 12月3日、「年金保険・持続性法」案が閣議決定された。(1)04年の年金調整ストップに続けて(11月6日に議会可決)、次期の調整は05年1月でなく7月に(「多数派報告」の提案よりもさらに半年遅れ)。(2)早期年金の受給を60歳から63歳に引き上げ(08年までに段階的に)。(3)05年から年金受給者と保険料納付者の比率がマイナスになる場合は「持続性係数」を適用し給付を削減。(3)学生の年金算入期間の特例を廃止する。(1)によって年金者たちはドイツ史上初めてと言われる月額平均9ユーロの削減を強いられる。年金保険「改革」は年明け早々に内政の焦点になることが必至である。

◆「少数派報告」の対案
 組合側代表委員4人は、「多数派報告」に「少数派報告」を対置したが、同時に「報告」を出版物とすることが予告され、それは『社会国家――連帯的、効率的、未来保障的に ―― リュールプ委員会の諸提案への対案』として出版された。全体は7章にわたる長文であるが、ここでは「多数派報告」との年金問題での主要な対決点のみを摘記することにする。
(1)早期年金の現状(高齢者の大量失業、高齢者パートの増大など)を抜きにして67歳引上げが提案されている。(2)保険料の安定性への固執によって多数派は給付の削減に一面的に議論を狭めた。「これらの措置の相乗作用は高齢者の財政状況を著るしく悪化させ、高齢者貧困の可能性を高める」、とくに就業機会の供給なしの受給年齢引上げは多数の高齢者を貧困に追いやる危険がある。(3)保険料納入者と年金受給者の比率(持続性係数)は「自然的な所与」ではなく「形成可能」である。(4)将来の保険財政基盤の拡大―賃金以外の所得種類への拡充も検討すべきである。
 「報告」はその末尾に「あきらめる理由はない!」の1項を置き、次のように述べている。「社会政策は将来も分配問題に取組まなければならない。それと結びついた対決で、平和的に、そして公正にことを運ぶために、われわれは将来も強い労働組合を必要とする」と。
 『リュールプ委員会報告』は多くの労働組合や福祉団体の批判を巻き起こした。たとえば「統一サービス産業労組」(ver.di)は即日声明を発表した。それには次のようにある。「年金保険についてのリュールプ委員会の提案は、非社会的であり、法定年金制度の将来を安定させるにふさわしくない、ver.diはそれを拒否する」、「委員会が要求する年金公式における持続性係数は純然たる年金削減係数である、それは政治的天気概況に適合させられた年金のひとり歩きの足場となる、この係数の導入が解決ではなく、経済・財政政策のコース変更による失業の克服こそが解決である」、「政府が労働市場政策で宿題を片づけない前の年金受給年齢の引上げなど、およそ考えられないことである」と。

「社会的皆伐」強行される ― 労組の反発強まる

 「社会的皆伐」(Sozialkahlschlag)は労組が使い始めた新語だと思われる。「社会保障根こそぎ解体」の意味で用いられている。シュレーダー首相が3月の連邦議会の施政方針演説で明らかにした内政「改革」案が「アジェンダ2010」と名づけられたこと、そしてその中心が「労働市場改革」であり「社会保障改革」であったことは先に述べた。「アジェンダ2010」は発表の当初から労働組合の反発を呼んだが、また与党の社会民主党および90年連合・緑の党の内部からも批判が起こった。そのために両党は6月に相次いで臨時党大会を開き、反対を抑えて政府の信任を取りつけた。「アジェンダ2010」は立法化され、8,9月に「改革パック」として議会に提案された。これに野党保守党(キリスト教民主同盟CDUと自由民主党FDP)提出の「協約自治制限」法案が合流した。「改革パック」は8法案にふくれ上がり、秋口から国会の内外で長いたたかいが展開された。法案は12月末にようやく決着をみ、「社会的皆伐」は実行された。以下ではまず成立した法律の骨子を報告し、次に時間的順序は逆になるがそれをめぐる組合の反対行動の主要局面を述べることにする。

◆「社会的皆伐」
 「改革パック」の中で、医療保険制度の法改定は、早い段階での与野党合意もあり10月17日に可決された。このことは前項の「リュールプ委員会報告」に関連させて簡単にふれた。他の法案は連邦参議院に送付されたが、その大半は保守野党が多数派の同院で拒否され両院協議会の審議にもちこまれた。そこでの合意が成立したのは12月19日であった。合意された法案には税制改革案と一連の「労働市場改革」法案があった。前者は595票中592票の圧倒的多数で可決されたが、その主要部分は法人税、所得税の前倒し減税であった。一方でたばこ税の引上げ、各種補助金のカットが実施された。後者は以下の諸点を含んでいた。
 (1)失業手当――25ヵ月の経過期間を置き06年から55歳未満者12ヵ月、以上者18ヵ月(現行は最高受給期間32ヵ月)。(2)解雇告知保護――これまでの「労働者5人以上」に代えて「10人を超える企業」に解雇制限法を緩和。(3)ハルツ法L――「連邦雇用庁」をサービス企業に改組。失業者への迅速な職業紹介を主業務にし、名称も変更。(4)ハルツ法M――現行の失業扶助と社会扶助を「失業手当K」に統合(05年から)。給付水準を社会扶助のそれにする。「期待可能性」の適用が強化され、長期失業者は職安のあっせんするどんな仕事も――協約賃金以下でも、あるいはミニ・ジョブ、パートでも――拒否できない、拒否すれば30%までの手当削減。「失業手当K」は当面月額西345ユーロ、東331ユーロ。受給者には資力調査が行われ、一定の所得控除、老後のための預金が認められるが、その預金は60歳まで取り崩すことはできない。親子の相互扶養義務は除かれた。(5)協約自治――労働協約当事者は、「雇用のための経営同盟」形成が行われ易いように、より多く弾力化を認めることを議事録声明で要求されるが、法的介入は予定しない。(6)手工業規則――「親方強制」は現行94職業から41に減らす。職人は、6年を当該職業に従事し、そのうち4年を指導的な地位で働いていれば「親方証書」なしでも創業が可能である。
 若干の細部の修正はあったが原則不変の「皆伐」法が、組合指導者の評言によれば議会内の「大連立」で採決された。議決には与党12人の議員が「労働市場のアメリカ化」だとして反対した。「民主的社会主義党(PDS)の2名も反対した。「失業率とたたかうのではなく、失業者とたたかう措置だ」、「賃金ダンピングに利用される」など、組合は反発を強めた。

◆「皆伐」に抗して ― ベルリン10万人デモなど
 「アジェンダ2010」に対しては早々に労組の反対行動が始まった。その例としてメーデーの場合については前述した。その後も組合の反発は声明や街頭行動によって積み重ねられていくが、その過程ではとくに金属労組(IG Metall)の東地域での週35時間制要求のストライキの挫折を機会として、使用者団体や保守野党からは、「協約自治」を立法によって制限しようとする要求が強まり、組合はそれへの対決にも迫られることになる。6月1日の社会民主党臨時大会を見越しての5月24日には、労働総同盟の呼びかけで、「改革はイエス、社会保障解体はノー」のスローガンで集会・デモが組まれ、これには14都市9万人が参加した。8月末には前述したように「リュールプ委員会報告」への「少数派報告」による組合側の対決も行われた。さらに10月には金属労組とver.diの2大組合の定期大会が開かれたが、この時期に前後して、「協約自治」破壊に反対する職場のたたかいが全国的に拡がった。金属労組は大会決議として「協約自治」擁護の『ハノーヴァー宣言』を発表した(後述)。さらに10月13日には年金者ら1万人のベルリン・デモが組まれた。年金者団体、PDS、労組の一部などが呼びかけたもので、医療制度の改悪、年金調整の見送りや「リュールプ委員会報告」への抗議が訴えられた。
 抗議行動の最大の山は11月1日のベルリン集会であった。「10万人以上が社会的皆伐に抗議」とver.diは報じた。グローバル化批判のATTAC、そしてIG Metall、ver.di、IG BAUおよびGEW(教育・学術労組)の下部機関、失業者行動団体、PDSなどが呼びかけたもので、バス100台を連ねて全国から結集した参加者は、2万人という主催者の当初の予想をはるかに上回っていた。デモの流れに合流する市民も多く見られた。
 ATTACの代表は、貧困者・老人・失業者・病人がこれまで以上の支払いを要求されるのに、同時に所得税の最高税率と法人税が下げられる政治の欺瞞を批判した。議会内に新自由主義に反対する野党がほとんどないから、広範な議会外野党が必要なのだ、とも訴えた。ver.diの地区代表は、「われわれは、すべての人間が豊かな国の社会的な条件と尊厳のもとで生活できること、富者がますます富み貧者がますます貧しくならないことを望む」と述べた。横断幕には、「鋤に剣、人間に政治家」、「皆のための貧困――失業手当K」、「なぜ貧しい者から巻き上げるのか、富んだ者がいるのに」、「富んだ者がさらに豊かになるために」など皮肉と怒りの文字が並んだ。「11月1日は下からの幅広い抵抗のための始まりに過ぎない」と主催者は運動の継続を訴えた。11月18日にはヴィースバーデンで、ヘッセン州コッホ首相(CDU)の緊縮政策に反対する4千人集会が続いた。
 最後に「協約自治」制限の立法化を阻止した運動の中からIG Metallの取組について付言したい。組合は10月の定期大会で「協約自治についてのハノーヴァー宣言」を発表した。それには次のようにある。「UnionとFDP(キリスト教民主同盟と同社会同盟および自由民主党)は優位原則を廃止し、労働協約からの乖離をいわゆる『経営同盟』によって可能にしようとしている。協約自治を攻撃する者は社会的民主主義の柱の一本を揺する者である」。優位原則とは労働法で定められた労働協約が経営協定に優先するという原則である。「宣言」の末尾には次のように言われていた。「われわれは連邦政府およびドイツ連邦議会の全政党に、協約自治を党政策上の戦術の要素におとしめないよう要求する」と。12月12日に金属労使は「協約自治」について、現状変更を認めないことの合意声明を出した。それはDGBゾマー議長と使用者団体(BDA)フント会長の二度の話し合いが破綻した直後のことであった。金属使用者連盟(Gesamt- metall)のカネギーサー会長は、「われわれの労働協約はすでに経営上の活動の余地のための開放を含んでいる。だからなにか原則的に新しいものが問題ではなく、広域労働協約の一層の発展が問題である」と述べた。組合のペータース委員長も、「IG Metallは――必要ならば――労働協約における広い経営的形成可能性のための余地を拡大する用意がある」と語った。
 議会での法律不成立が明らかになったとき、委員長は次のように指摘した。「この成果はとくに過去数週間、就業時間内にさえ協約自治のために抗議した数万の雇用者の圧力に負うている」、「ドイツの思慮ある政治勢力が勝利した。憲法の自由権を市場自由主義的な横領から守ることができた」と。(島崎晴哉)