『月刊全労連』連載 いっちょかみが行く「阪神・淡路大震災から30年」(2025年3月号)
第3回目となる今回は、わたしの人生に大きな影響を与えた阪神・淡路大震災についてお話しします。忘れもしない1995年1月17日のことです。今年は、震災発生から30年となりました。
突然の激しい揺れ
あの衝撃を書き表すことはたいへん難しいことです。思い出すのは、「もうだめだ」と思いながら、布団の中で身を固めていたことです。幸い寝ていた部屋には家具が無かったので、下敷きになることはありませんでしたが、台所やその他の部屋はたいへんな状況でした。室内で靴を履き、ケガをしないようにしてから隣家の無事を確認したりしました。
住んでいたのは公務員宿舎、いわゆる社宅です。同じ職場の職員も別棟に住んでいましたが、後で話をすると、家財の倒れ方に違いがありました。わたしの部屋はまだましだったようです。
地震が発生したのは早朝の5時46分でしたから、外はまだ暗く、また電気もつかなかったので、懐中電灯を探してつけたように思います。家の状態などからとても出勤できる状態にありません。周りも騒然としていました。実は、地震発生後の一日をどのように過ごしたのか、よく思い出せません。携帯電話もなかった時代です。どこにも連絡がつけられず、家の片付けに追われていました。
電気の復旧と驚きの連続
地震発生後、電気・ガス・水道が止まってしまいましたが、電気は思ったよりも早く復旧しました。そのおかげで、テレビから様々な報道で様子を知ることができた一方で、あまりの被害に驚き、心が痛みました。阪神高速道路や新幹線に加え、阪神電車の高架線路も倒壊していたほか、阪急伊丹駅も押しつぶされていました。火災も各地で発生していました。火を消そうと消防士が走り回りますが、水が出ません。その様子に呆然と立ちすくむ人々と鳴り止まないサイレンの音が重なります。余りにも多くの被害が出ていることに呆然と立ち尽くしました。
さて職場へ連絡しようと思いますが、自宅の固定電話はつながりません。どうやら近くの公衆電話から電話ができるということを聞き、連絡することができたことを思い出します。そのとき、10円玉をたくさん握りしめてかけましたね。テレフォンカードでもかけられるようになっていましたが、停電のためか現金でなければかけられませんでした。
職場までの長い道のり
職場への通勤も公共交通機関で使えるところは限られていました。何しろ線路が寸断され、電車で通勤することができません。ルートをいろいろと調べるとバスを乗り継いで行くことができそうでした。しかし、余りに時間がかかるので、実家に避難して、しばらく実家から通うことにしました。
4月に転勤することとなり、自宅に水も供給されるようになったので、自宅に戻って通うことにしました。とはいえ、西宮市から神戸市までの通勤です。電車の線路はどれもこれも寸断されたままで途中から代行バスを使うしかありません。
時間が経過するにつれ、線路が徐々につながり、電車、バス、電車といった乗り継ぎとなり、やがて電車だけで通勤できるようになりました。半年以上かかったと思います。多くの人々が復旧に向けて作業してくれたことに感謝の気持ちで一杯でした。
なお当時、帰りの代行バスから見えた夜景は、明かりが見えない真っ暗闇でした。本当なら、多くの明かりがともり、家族の団らんがあったはずです。徐々に明かりは増えていきましたが、はじめの頃に見た夜景は悲しいばかりでした。
続々と救援・支援が届く
有り難かったのは、全国各地からの支援でした。いろいろなものが届けられました。食料や衣類の支援をたくさんいただきました。当時は、ペットボトルの水が普及していなかったので、水は給水車や浄水場からもらっていました。被災当時に勤務していた職場は、水や電気などに問題が無かったのですが、神戸の中心部では、トイレなどに必要な水の確保に苦労していたようです。
わたしの職場は全国組織でしたから、支援物資が全国から送られてきました。しかし、被災地で仕分けすることは難しかったので、京都が仕分け地となってくれて、各拠点への輸送も行ってくれました。あらためて、この場を借りて仲間の奮闘に感謝を申し上げます。
仕事面でも多くの支援がありました。1週間交代で、各地から職員が応援にやってきました。被災者を救援するための膨大な業務をこなすため、協力して取り組みました。
復興へ向けたとりくみに参加
被災後は、兵庫労連をはじめとする団体や個人が集まり、兵庫復興県民会議が結成されました。わたしもいつの間にか関係者の一員として運動に関わるようになり、被災者支援法の制定に向けた市民運動に参加しました。
気がつけば要請を受けて、国会議員に対するロビーイング活動も行いました。とはいっても、復興県民会議のニュースを議員会館に届けるなどの役割が中心です。おかげでいろいろな経験をしました。また、小田実さん(作家)への取材にも同行するなど、有識者との接点も増えました。学習するなかで、神戸大学の早川和男教授の「居住福祉」という話に感銘し、岩波新書の著書を繰り返し読んだことを思い出します。
こうした取り組みへの参加で、全労連の運動に大きく関わることになったのです。
(月刊全労連2025年4月号 通巻338号)