2002年4月の、ウーゴ・チャベス政権を転覆しようとしたクーデター事件以来、ベネズエラの出来事が日本を含め国際的にニュースで伝えられるようになった。2002年末から2003年はじめにかけて、ふたたび「ゼネスト」が世界のメディアの注目を集めたが、「チャベス政権とその独裁に反対する労働組合の対立」という構図が描かれることが多かった。中南米の国々においてさえ、ベネズエラの事態の真実は、なかなかわからなかったようであるが、2003年の動きは、「独裁政権と労働組合・国民の間の対立とはまたく異なるものであることが明らかになってきた。
1998年12月の大統領選挙で最初に当選したチャベス大統領は、元陸軍中佐。自ら第五共和国運動を中心とした中小の13の政党からなる連合「ポロ・パトリオティコ」を基盤に、二大政党制の腐敗を告発し、貧民救済をかかげ、新憲法制定による民主主義的革命をよびかけて、広範な貧困層の支持を集めたのだった。2000年7月の大統領選挙でも再選された。
一連の反政府「ゼネスト」の中心的な部隊は、確かに労働組合のナショナルセンターであるベネズエラ労働総連合(CTV)である。しかし、2002年4月18日のクーデターが失敗したとき、民主的選挙で成立したチャベス政権をクーデターで打倒しようとしたその行動におけるCTVの役割に、米州各国でも疑問が指摘された。事実、CTVは、財界の勢力と一体であった。たとえば、ゼネストなるものが組織・扇動されたとき、石油(ブルーカラー)、電力、運輸、公共部門その他の基幹産業や地下鉄などの労働者は「スト」に加わらずに働いていた、あるいは、独占企業から労働者がレイオフされ、ロックアウトされて、その間もちゃんと給料が支払われていた、という事実が明らかにされ、チャベス政権打倒をねらう財界の仕業であることが広く知られることとなった。また、米国の関与についても欧米の一般のマスコミがしばしば伝えている。
国の基幹産業である石油の国営企業PDVSAでは、技術者や経営側が操業を放棄したが、現場の労働者がみずから協同組合をつくって自主管理、共同管理などについて検討をはじめ、現在では2人の労働者代表を含むマネージメントに民間の企業が協力して操業を続けた。
反政府派(Coordinadora Democratica)は8月、チャベス大統領の任期半ば過ぎのところで、リコール投票をよびかけるなど、ひきつづき反政府行動を強めている。
こうした動きにたいし、3月には新しい階級的労働組合組織(UNT)がつくられた。2002年のクーデター事件後にボリーバル労働者勢力(FBT)という、チャベス政権と連携した運動のなかで検討、準備してきたものだった。これにはCTV加盟だった石油労組も参加してきた。
財界と一体となって反チャベス・キャンペーンの先兵的役割を果たしてきたCTVは、かつて、与党だった民主行動党(AD)の影響下で「ナショナルセンター」であった。チャベス政権の登場でADは野党に転落したため、ある種必然的に反政府の立場に身をおくことになっている。
現在ベネズエラでおきている出来事は、チャベス政権がすすめる「ベネズエラ革命」と、それに反対する動きであり、CTVの「ゼネスト」や新しいUNTについてもこの流れのなかでの出来事である。この「革命」運動は、この数年の間ににわかに生まれたというものではなく、80年代のはじめに起こったチャベスらの「ボリーバル革命運動200」(MBR-200)に始まる。軍人がその中心的な存在であった。(ベネズエラの軍隊は他のラテンアメリカ諸国の軍隊とちがった特徴をもっている。ラテンアメリカでは多くの国の将校は、悪名高い米国の「米州学校」(School of Americas)で、人殺しから反革命謀略にいたるまで訓練をうけてきたが、ベネズエラの軍人は多くが貧困層の出身で、しかも米州学校で訓練を受けておらず、一定民主主義的な仕組みのなかで養成されてきた。)チャベス氏に代表されるそうした流れを背景にした勢力がいま、1990年代初めからラテンアメリカの経済を支配し衰退させてきた「ネオリベラリズム」に反対して主権擁護、中南米の地域的統合による民主主義的な発展の道を探求し、独特の「参加民主主義」をかかげているのが「ベネズエラ革命」である。ベネズエラでは、その「革命」の推進部隊として、2000年以来、政党ではなく、ボリーバル・サークル(Circlos Bolivarianos)という基本単位をつくり民衆の参加の道を開くというやりかたをとっている。その多くのメンバーは組織労働者だという。(岡田則男)
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